あうと・おぶ・ばうんず


私とゴルフ、レインボー会そして槙山先生のこと

このたびレインボー会500回記念に投稿するに際していろいろ考えたのだが、、やはり故槙山先生、愛称「まきさん」のことをなきにして私とレインボー会は語れない。

槙山先生には開業以来同じ阪大学友会そして東天地区の大先輩でもあり、開業して右も左もわからなかった私になにかと目をかけていただいた。

というわけで、レインボー会に入会させていただいて17年が過ぎ、レインボー会も500回の記念大会を迎えた今、槙山先生とのふれあいを思い出しつつ、これまでの私とゴルフ、そしてレインボー会についてふりかえってみよう。

レインボー会第400回ゴルフコンペ及び創立40周記念誌に、「我がゴルフ遍歴」と題して寄稿した中に次のようなくだりがある。

「平成三年五月に天神の森コットンビルで開業して今年で十年になる。開業前後から忙しくてしばらくクラブを握っていなかったが、運動不足もあり、コットンビルの林先生と北野先生と一緒にレインボー会に入会させていただいた。初参加した平成四年七月の有馬CC でのレインボー会ではスコアは丁度100 だった。ブランクがあったわりにはまあまあであったかと思われる。その後も100 前後をうろちょろするゴルフに満足していた。

 ある時、確か北六甲でのレインボー会で槙山先生と御一緒したときに、ひどい大叩きをしてしまった。そのときに槙山先生が嘆きつつ言われた一言がその後の私のゴルフ人生を決定した。曰く「整形外科医はゴルフは上手なはずやけどなあ・・・」−確かに、整形外科医のゴルフのレベルは他科の医師より高いと推定される。医局の先輩後輩にはシングルプレーヤーが大勢おられるし、同窓会などでは、クラチャンやホールインワンの話題がよくでる。

専門が運動器を扱う分野であることや、それ故に学生時代からのスポーツの経験者の入局が多いこと、などが理由として考えられる。整形外科医とゴルフの腕前についての詳細な統計学的考察はまたの機会に譲るとして、話が横道にそれたが、その時にこう決意したのだった。「まずい。このままでは俺の整形外科医としてのアイデンティティ(?)にもかかわってくる。ゴルフの腕を磨こう」と。

以来、週に1 回知り合いのプロに個人レッスンを受けることにした。そして、いまはなき「しろやま」で日曜日などは朝から晩まで打ちまくった。この頃の癖で、いまでも5箱以上打たないと練習した気がしない。(最近は体力的かつ経済的理由から、2、3箱程度でやめるようにしている)

練習の成果が出てきだすと、80 台のスコアもぼつぼつ出るようになり、今にいたるまで何回かレインボー会で優勝させていただいた。」

 さて、記録をひもといてみると、平成4年7月12日に有馬CCで開催された第305回レインボー会に北野先生と森本清一先生とともに初参加、48-52 グロス100、暫定ハンデ23に決定、とある。(森本先生、ラグビーはそろそろ年齢的にきついでしょ?またゴルフ始めましょう!)

 次に第314回レインボー会 (平成5年4月18日於北六甲CC)で、58-53 111 HD21 で20人中18位、なる記録がある。これが例の「大叩き」のようである。(ちなみに、槙山先生は、44-48 92 HD17 NET 75で、優勝の亀谷先生に1打差で惜しくも準優勝)

 この日から記念誌に書いたように、発奮して猛然と練習に励んだ結果、平成7年9月の第340回レインボー会で、46−46

92 HD26 NET 66 で念願のレインボー会初優勝をすることができた。奇しくも開催場所は同じ北六甲CCだった。(杉山先生の観戦記によると、参加予定の槙山先生が寝坊して不参加、とある。是非師匠の前で初優勝を果たしたかったのだが、、それにしても、寝坊して不参加とは、、あの槙山先生にも意外にお茶目な面があったんですね、、)

 第368回(平成10年 5月 31日於有馬ロイヤルGC)

では槙山先生がGROS82 HD13NET69 で堂々の優勝、わたしはGROS95 HD20 NET75 で三位だった。しかし、第398回(平成13年 3月 20日於ABCGC)ではわたしが、GROS89 HD21 NET68で、二位の槙山先生

(GROS83 HD13 NET70)に2打差をつけて優勝を飾っている。また、田辺CCだったとおもうが、結構アンダーをだして優勝間違いなし、と悦に入っていたら、不参加期間の関係で優勝資格がなく、槙山先生に優勝をさらわれて悔しい思いをしたこともあった、、、「すまんなああ、、、」といってにやりと笑われたお顔が今も目に浮かぶ、、 縁あって廣野でプレーすることになった。無論運転手の送り迎えは私である。さすがに日本有数の名門コース、すべてが満足のいくすばらしいプレーを満喫した。

わたしは名物の崖越えショートでバーディをとったものの、アリソンバンカーと超高速グリーンにやられてあえなく爆沈したが槙山先生は結構満足のいくスコアであがっておられた。

で、プレー後の請求書を見て、「日本一のゴルフ場はこっちも日本一やなああ、、」と笑いあったものだ。(今度いかれるかたは是非実感していただきたい)

おもいこせばいろんな場面がよみがえってくる、、、

 「しろやま」が廃業したあとは、ゴルフ阪神住之江に通っている。槙山先生はほとんど毎日こられていた。あいかわらずドライバーばかりバカスカ打って練習していると、「そんなんではあかん。ゴルフはアプローチや。アプローチをもっとしっかり練習せえ!」とよくいわれた。で、アプローチは単調で面白くないので、適当にサンドでパカパカうっていると、「そんなやっつけ仕事みたいではあかん!」と怒られたこともあった。おかげで、苦手なアプローチも少しずつましになり、寄セワンのパーをひろいだすなどしてすこし腕前があがってくると、俄然ゴルフが面白くなっていった。

 ここで最近読んだゴルフ雑誌に青木功プロの言葉で印象に残ったものを引用する。

 「そうなんだ、アマチュアの人はドライバーショットでスコアを崩すと思っているらしいけど、実はアプローチやパットのミスでスコアを乱しているほうが多いのよ。スコアをまとめようと思ったらアプローチとパットを練習しろーってよく言われるのもこういう事実があるからさ。だって、考えてご覧なさい。かりにドライバーでラフに打ち込んだ。出すのに1打かかってグリーンに着いたら、4打かかっていた。しかもパットは7−8メートルも残っている。でも、このパットが運よく入れば5であがれるのよ。反対に、ドライバーがナイスショット、2打目もうまくいってグリーンエッジだとしようか。ここでアプローチをざっくりやる。失敗に心を乱して、次のショットも思うようによらない。ここから2パットかかったら、6でしょ。どっちが勝つ?誰が考えてもわかることじゃないの」

 さすがに世界の青木、、身につまされる思いである。

 ことほど左様に「ゴルフはアプローチとパットが重要」、まさしく槙山先生のいわれたとうりである。

 レインボー会400回記念誌に会員が投稿することになった。「ああいうのは書いたことがない。筆不精やからな。わしは書かん」と渋る槙山先生にかわってゴーストライターと写真係をつとめさせていただき、あとで感謝されたことが思い出される。(白状します、槙山先生の原稿の分は写真もふくめてすべてわたしがやりました。でもちゃんと本人に取材はしましたから。 エージシュートを夢見て毎日練習している、というのは本当です。)

  飛ばんようになったなあああ、、、といつもぼやいておられた。 (結構おトシの割には飛んでいるとおもってたのだが、、)

わしなあ、ホールインワン、いっぺんやってみたいんや。届かんかったら入らんおもて、いつも大き目のクラブ握ってるんやけどなああ、、、 (それを聞いてから、わたしもショートでは迷ったときは大きい番手を持つようにしているが、、なかなかどうして、、、)

わしらの若い頃はみなボーリングやったんや。赤木君(なくなられたお父上)なんかとよくいったもんや。ちょっとした腕前やったんやで。。けどなあ、、もっと早いうちにゴルフはじめといたらなあ、、ともいっておられた。確かに、ゴルフは始めた年齢の半分くらいが到達ハンデの目安だと聞いたことがある。それでいえば槙山先生はかなり上達されたといえるのでないだろうか?ボーリングで鍛えた体と運動神経がよい方向に作用したのだろう。(ま、それでいくと私ももう少しうまくなっていいのだが、、これがなかなか、、ゴルフハムズカシイ、、、、)

 ABCでレインボー会があると「ゴールドと白と差が無い。ここは敬老精神に欠けておる。」といつも怒っておられた。

ただ17番ミドルだけははるか前方にゴールドティとレディスティがあり、「ここだけは褒めといたる」ともいわれたことを思い出す。

最近はエージシュート達成に執念を燃やしておられたようだが、なかなか難しいわ、といっておられた。

バックスイングで右後ろに顔が向く独特のフォームだった槙山先生。後ろで見ていると、目と目が合って、まさに「こんにちは」といった感じである。ご自分の体が硬いことを知っておられて工夫された結果だと思う。

  実はなくなられるその前日にわたしはゴルフ阪神住之江でお会いしている。

いつものようにドライバーを振り回していると、ふと後ろに視線を感じてふりむくと、槙山先生がいつもの柔和なお顔でみておられた。「もうお帰りですか?」と聞くと、「わしなああ、、もうレインボー会、やめようおもてんねん。。。」といわれて驚いたことがはっきり思い出される。

「なんでですか!もっとやりましょうよ!」といっても「もうええねん。老兵は去るのみや」といわれてとぼとぼと歩きながら帰っていかれた。あの例の台車つきのキャディバッグをガラガラと引きながら、、、そのとき、なにか寂しげな印象を受けたのだが、、まさか翌日に、、、、、

   槙山先生、いままでご指導ご鞭撻いただき、ありがとうございました。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。やすらかにお眠りください。

天国でエージシュート達成できますよう祈っております     合掌 

  すこししんみりとしてしまったが、そろそろこの稿も終わりにしよう。

わたしと槙山先生とのお付き合いは遺憾ながら突然終わってしまったが、ゴルフ、そしてレインボー会とのお付き合いはまだまだ続く。HCの目標は、シングルといいたいところだが、まあ「シングルを狙いました」といえるくらいの12、13くらいにはなりたいものである。そしてホールインワン、なるものもゴルファーとしては一度はやってみたい。

実は、先日のレインボー会で、パー4で残り140ヤードを7番アイアンで打ったのがカップインして生まれて初めてイーグルを経験した。(現認者は阪本憲一先生)

しかし、考えてみると140ヤードのショートを直接カップインしたのと同じなのだからこれはひょっとして近いうちにできるかもしれないなと密かに期待している。そして、槙山先生も憧れられたエージシュート、、これはまず長生きしなければ無理なのだが、、これも長期的な目標としておこう。

最後になったが、今後のレインボー会のますますの発展を祈念してやまない。

もっと若手がどんどん参加してますます盛会となって、600回、700回、そして1000回!!と続いていくように願っている。