あうと・おぶ・ばうんず


南国土佐をあとにして

 昭和61 年早春のことである。その頃私はのどかな南紀の温泉病院から大阪市内の第1 線の病院に転勤し、朝から晩まで馬車馬の様に働いていた。この病院は脊椎外科と並んでスポーツ整形外科が有名で、阪神タイガースの選手がよく治療にやってきていた。その関係で、毎年阪神タイガースの安芸キャンプのドクターを大学および他の関連病院と交替で努めていた。その年は、いつもは喜々としてでかけられる熱狂的タイガースファンの部長が急用でいけなくなったのだが、次席部長が巨人ファンだったため、急遽私に白羽の矢がたった。阪神ファンだった私はそれこそ喜々としてでかけることになった。

 久しぶりに優勝した翌年だったので、マスコミ、ファンが大勢つめかけており、いつもは静かな安芸は大変な賑わいであった。安芸市営球場のメインポールには、「NIPPON CHAMPION」の旗が悠然とひるがえっていた。 (今度はいつの日か・・)キャンプドクターといっても、選手が怪我でもしない限り出番はない。球団の広報担当職員がつきっきりで世話をしてくれて、「先生には何もしていただかないのが一番なんですから。ま、お茶でも飲んでのんびりしていって下さい」というお言葉に甘えて、ネット裏の特等席からじっくりとかぶりつきで見学させてもらった。なにしろあこがれの掛布、岡田、バース-日本プロ野球史上最強クリーンナップ-を生で至近距離からおがめるのだ。毎日が興奮と感動の連続であった。

 昼食は選手と一緒に仮設テントでするのだが、これがまた豪勢である。ファンからの差し入れなどもあって、最高級神戸牛のステーキや焼肉、特上寿司、とれたての新鮮なお造り、うどん・そば、天麩羅、野菜サラダなどなどがてんこ盛りである。好きなものを好きなだけ食べるのだが、選手はあまり食べない様子だった。猛練習で疲れていて食事どころではないのだろう。練習の合間に、スポーツ新聞の記者がときどきすりよってくる。当時話題だった某剛球投手が肩を痛めていた。かれらは言葉巧みに、「○○投手の肩、どうですか?」などと私から情報を得ようとするが、もちろん守秘義務を盾に、口にチャックである。-その後例の投手は、肩を手術したが結局引退してしまった。

 練習は意外と早く、午後3 時頃には終ってしまう。そのあとは、ホテルのスイートルームで一寝入りして、夕方から球団幹部の人と市内の一流料亭で山海の珍味がズラリと並ぶ豪華な夕食である。そして「今日もちょっと軽くいきますか」とかいって、高級クラブ、(もっとも田舎のことゆえ-失礼-あまり「高級」な御婦人には残念ながらめぐりあえなかったが)やスナック、カラオケとハシゴして、深夜まで帰してくれなかった。

 翌朝二日酔いと寝不足のぼけた頭でのんびりと野球見物、そして休日には名門土佐カントリーでゴルフ三昧と連日連夜の接待漬けである。これでは大蔵官僚でなくとも骨抜きになるのがあたりまえであろう。

 ある日、当時ルーキーだった野田投手が、母趾のマメをつぶして化膿したため、安芸市民病院の外科に付き添っていって切開排膿してもらった。たいしたことないと思っていたのに翌日のスポーツ紙を見て仰天した。一面の大見出しで、「野田手術!!」とでかでかとでている。そして、彼に付き添って病院に入る自分の姿が写真にはっきりと写っているではないか。野田投手は新人王候補として鳴り物入りで阪神に入団した。(一時先発で活躍したので御記憶のかたもおられよう)マスコミの注目の的であったせいもあろうが、それにしてもマメの切開を"手術!"とは。確かに間違ってはいないが、知らない人が見たらびっくりして思わず新聞を買ってしまうであろう。ま、そこが狙いなのだろう。厚生省の尻馬に乗って、医者叩きのヨタ記事を垂れ流している昨今のマスコミの愚劣さに比べれば可愛いものだが。

 この"事件"は大阪でも波紋を呼んでいたことが後でわかった。病棟を回診していると、何人もの患者さんから「先生見たで。なかなか格好よろしかったですな。」なんて皮肉っぽく言われた。(そういえば受け持ち患者には学会出張ということにしていたのだ。マスコミの影響力の大きさを思い知らされた)

 余談だが、野田投手は人柄が温厚で明るく私も好きな選手だった。阪神の将来のエース候補だったのに、アホな球団上層部がトレードに出してしまった。残念至極である。このアホな体質は今も変わっていない。予定の1 週間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。広報の人が車で空港まで送ってくれて、土佐名産の文旦(ぶんたん;夏みかんの倍くらいの大きさで、甘くておいしい)をお土産にもたせてくれた。丁重にお礼を言われたが、むしろ感謝したいのはこちらであった。大阪に帰ってからのことはなるべく考えない様にして、名残惜しい気持ちを胸に帰路についた。南国土佐の青く澄み切った空と、ゆったりと蛇行する黒潮が今も脳裏にやきついている。