あうと・おぶ・ばうんず


鮑と石鯛

 医学部のある教授が「私の駆け出し時代」と題して、若い頃の思い出を書いておられるのを読んで、自らの「駆け出し時代」を思い出した。それは医者になって3年目に、医局から派遣されて、1年間和歌山県南部の温泉町の病院に赴任したときのことであった。今から20年近く前になるだろうか。慢性関節リウマチを専門に治療する病院で、整形外科医3人と内科医3人、それに院長の総勢7人の小さな病院であったが、人工関節置換術などの高度な手術が多く、まさに「駆け出しの、メスを持ちたい盛り」であった当時の自分にとっては随分貴重な経験となった。

 ある日、重症の慢性関節リウマチ患者の手術を執刀することになった。その手術の助手としては何回か経験していたが、執刀するのは初めてだった。おまけに原法を変えておこなう必要があるような難易度の高い手術であった。「もしあそこでうまくいかなかったらどうしようか」など、最悪の事態ばかりが次々と思い起こされて、前日はなかなか寝付けなかった。(最近ではゴルフコンペの前日に同様に寝付けないことが有るが、この場合は「あまりアンダーで優勝してしまったらまずいかな」といったような妄想で寝つかれないわけで、この場合とは大きく異なる。)

 ともかく先輩医師の適切な御指導もあって、手術は無事おわった。出来栄えは先輩のお墨付きをもらえたぐらいで、満足のいくものであった。

 手術が終われば終わったで、次は外科医につきものの術後管理である。慢性関節リウマチ患者は貧血を合併していたり、副腎皮質ホルモンの服用などでストレス耐用性が低下しているなど、通常よりきめの細かい術後管理が必要であることが多い。その患者さんも一時血圧が低下したりして、結局明け方まで一睡もできなかった。

 さて幸い術後経過は順調で、リハビリテーションも終わり、患者が退院した数日後だっただろうか。休みの日で宿舎で昼寝していると、玄関の呼び出しが鳴った。なんだろうと思ってでてみると例の患者さんの家族がバケツを持って立っていた。みると、バケツ一杯の鮑、それも拳よりもおおきな奴がごろごろ、まだ生きているのか身をよじらせている。そういえば患者さんとの雑談で、「このあたりは磯浜で鮑とかウニが美味しいらしいですね」なんてことをしゃべっていたことを思い出した。地元の漁師である患者の家族が、手術のお礼として、とれたての鮑を持ってきてくれたというわけだ。ありがたくおいしくいただいた。ひとりではとても食べきれないので、同じ宿舎の何人かでさばいて刺身やバター焼きにしたり、肝を酢醤油であえたりして満腹になるまでたいらげた。後にも先にも、とれたての新鮮な鮑をあれだけ食いまくった事はない。実にうまかった。

 また、ある時、外来の看護婦が、見事な石鯛を一匹さばいてもってきてくれたことがあった。これも日頃「このあたりは磯釣りのメッカで、幻の魚といわれている石鯛がつれるんだってねえ。一度たべてみたいもんだねえ」なんてことを言っていたので、磯釣りが趣味である彼女の旦那さんが苦労して釣ったものをもってきてくれたのだった。(どうもいつも食い意地がはっているようでお恥ずかしい限りだが。それにしても初めて食べた、とれたての石鯛のこりこりとした白身のおいしさは今でも忘れられない。)

 ゴルフを覚えたのもこの頃だった。近くのゴルフ場へ、天気のいいときは昼から休みをとってまわったりした。初めてスコアが100をきって狂喜したものの、大阪に帰ってからは忙しくてクラブを握る暇もなくなり、瞬く間に元の下手になっていた。(開業してから参加した医師会ゴルフ部コンペで大たたきして、一緒にまわっていたM先生に、「整形外科の医者はゴルフは上手なはずなのになあ」と嘆かれたくらいだった。)

 患者さんを森林浴と称して、近くの公園や森に引率して、体操やゲートボールをする院外の理学療法が毎週あった。休憩時間に燦々とした太陽を浴びながら芝生で昼寝をしていると、「これで給料がもらえるなんて、大阪のみんなはうらやましがるだろうな」なんて思っていたが、そのうち「こんなことをしてていいのやろうか」に変わっていった。

 そんなこんなで1年はあっというまに過ぎ去っていった。

 卒後3年目というのは、医師として多少の自覚と自信が芽生える頃だと思うが、この時期によき先輩と思い出に残るような患者さんに出会えたことは当時の自分にとって幸運だったと思う。そしてどこまでも青い海とまばゆいばかりの太陽一この恵まれた自然と、土地の人の素朴で暖かい人情に触れることができたことも。人間関係を含むすべての意味で、今よりもずっとのどかな時代だったのだろうか。天神の森での開業医生活も板に付いてきた今日この頃、あの頃のことが特に感慨深く思い出されるのは何故だろうか。とにもかくにも医師として「若干の自信と自覚」を持って、希望に胸ふくらませて勇躍大阪に凱旋することになる。しかしその後に第1線の、いわば野戦病院での地獄のような生活が待っていようとはそのときは知る由もなかった。

(おわり)